特派員のツツミです。こんにちは。
皆さん、歴史は好きですか?
今日は「やながわ歴史文化講座」を紹介します。

「やながわ歴史文化講座」は
2017年7月から2018年3月まで奇数月に1回、全5回行われます。
ちなみに前回第2回講座「柳川にも女城主がいた」の講師は、
柳川市出身で高野山大学総合学術機構の木下先生でした。
「ブラタモリ」高野山の回でタモリさんを案内していた先生です。
互いに柳川に縁があるため、高野山なのに柳川の話で盛り上がっていましたね。

さて、11月のテーマは「柳川の平地城館を巡る~大和編」。
城館の跡を歩いて巡るウォーキング(8㎞)で
講師は九州歴史資料館の岡寺先生でした。

だだっ広い田んぼのどこに城が?

受付終了後、簡単な体操をしてウォーキング開始。
津留城(つるじょう)や鷹尾城(たかおじょう)跡を目指します。

古地図や昔の航空写真と比べながら、赤いルートを歩きます

軽く準備運動をしていよいよスタート!

歩きながら見えるのは田んぼばかり。
柳川市のはずれで繁華街とは無縁。
こんな地に城があったんだろうか、
と思いますが、あったようです。

岡寺先生の説明を聞きながら歩く。ここは鷹尾城・田尻氏、柳川城・蒲池氏の領地を分ける間垣(まがき)橋

今では橋の上を国道が走ります

この地方の領主・田尻氏が
天文17(1548)年、鷹尾(たかお)と呼ばれる地域に
鷹尾城を築城し、周辺に5つの支城を築いたといわれます。

戦国期の筑後地区は、大友氏、龍造寺氏、島津氏の勢力争い。
柳川には柳川城に蒲池氏、鷹尾城に田尻氏がいて、
各氏が互いに手を結んだり、
そむいたりしながら、争いを続けたようです。

案内板を読むと、
田尻氏はもともと大友氏の支配下だったようですが、
龍造寺氏についたり、島津氏に援軍を頼んだりしたことも。
小さい集団で必死だったんでしょうか‥。
矢部川や有明海を生かして力をつけることは
できなかったんだろうか、と思いますが、
実際はどうだったのでしょうね。

津留城跡の案内板

結局、田尻氏は龍造寺氏に敗れて佐賀へ移され、
龍造寺氏が南筑後を任されたものの
最後は大友方の戸次道雪(べっきどうせつ)・
高橋紹運(たかはしじょううん)によって鷹尾城は落城。
その後、一国一城令によって廃城となります。
今では田んぼや住宅に囲まれ、城の面影はありませんが、
地形などにその痕跡を見ることができます。

小さな集落の中の津留城跡。今では城の跡もないのですが‥

例えば、津留城では
当時の水路に沿って道路ができていたり、
集落の区画が正方形状になっていたり。
鮎堀(あゆぼり)と呼ばれる堀は
かんがい用水ではないようで、城の名残りといわれます。
水神が宿ると考えるのか、
田舎の人は池や堀、井戸を埋めることを嫌います。
堀はそのまま残したのでしょう。
言われてみれば妙な場所にあります。

住宅に囲まれるようにして残る鮎堀。今は小さな公園になっています

クリークはもとの水路を利用した!?

→vol.2へ続く

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