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8月-2015

天下分け目の戦い〜開館30周年特別展Ⅲ「関ヶ原合戦と立花宗茂」

こんにちは。 特派員の待鳥です。
只今、古文書館で開催されている 開館30周年特別展Ⅲ「関ヶ原合戦と立花宗茂」展へ行ってきました。
学芸員の方にいろいろ説明してもらいながら見学してきましたよ。

関ヶ原合戦は慶長5年(1600年)9月15日、東軍の徳川VS西軍の豊臣(毛利&石田)の両者が天下を二分して戦い、そして、これを機に豊臣から徳川へと政権が移っていく歴史上とっても有名な戦いですね。
この時、立花宗茂は西軍側に参戦しています。
(そのために領地をなくし牢人生活を経て柳河藩へ再び城主として戻るというエピソードは有名です)

今回の展示は、立花宗茂の関ケ原合戦での関わりについて。
大津城攻めから柳川開城までの過程を展示されている古文書からうかがい知ることが出来ると思います。(^^)
初公開の書状もありますよ。

古文書館ST_1

会期:2015年8月5日〜2015年9月6日(日曜)
月曜休館
時間:午前9時30分〜午後4時30分(入館は午後4時まで)

学芸員の方の展示解説:「8月22日(土曜)・9月5日(土曜)午後2時から約1時間程度」
解説を聞くとさらにおもしろくなりますよ。お時間の合う方は是非(^^)

柳川古文書館柳川市隅町71番地2

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古文書館ST_2

「関ケ原に集った諸将と宗茂の関わり」

●五大老連署書状ー海賊行為を禁じる「ばはん停止令」、五大老の名前と花印も書かれています。(慶長四年のもの。利長の名前がある。)
●石田三成・増田長盛連署書状ー宗茂に小早川秀包(久留米侍従)・筑紫広門・高橋直次らとともに釜山浦の在番を任じたもの。
●徳川家康書状ー天正19年(1591年、関ヶ原の9年前)宗茂へのお礼状
●島津義弘書状 ●福島正則書状

●徳川秀忠書状写ー秀忠が田中吉次に宛てた書状の写し。松井田に到着し信州上田城に篭もる真田昌幸・幸村父子を攻略する予定だと伝えている。(結局上田城を落とせず関が原には間に合わなかった。)

そして
●関ヶ原合戦の武将の陣の配置図です。犬山城までの広範囲が描かれています。
合戦後にこの戦いを研究する為に書かれたものだろうとのことです。(作成年月不明)

関ヶ原合戦は短時間(6時間位?)で決着がついたと言われています。
先に着いた西軍が山側に陣を作り東軍を迎え撃ちます。陣の配置を見ただけでは西軍が有利な構え。
しかし、戦いが始まり、小早川が寝返ったことで流れが変わります。
東軍の勢いと寝返る武将の増加に西軍の陣は総崩れし、あっという間に東軍の勝利が決定しました。

この配置図から 田中吉政が石田三成の真正面に陣をとっているのがわかります。
この二人は同郷なので田中吉政は西軍に内通しているんじゃないかと東軍に疑われていたそうです。
疑いを晴らすため、吉政は三成の正面に陣取ったんです。そして東軍勝利後、三成を捕らえたのも吉政。
この功績から吉政は筑後柳河藩32万石を与えられました。

しかし、この陣の配置図に立花宗茂の文字はありません。
なぜなら宗茂は数日前から大津城で京極高次(西軍から東軍に寝返って籠城する)と対戦していて、
大津城が開城したのが9月15日、この日なんです。

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古文書館ST_3

●大津城攻めにおける軍功、戦傷者、戦死者を記載し認定した、宗茂からの「軍忠一見状」や「感状」です。

手柄の記載にくわえて、負傷者や死傷者の記載の数も多いことから、壮絶な戦いだったことが想像できます。
柳河に帰った10月に出されていますが、1つだけ、立花弥太郎に宛てたものは、親父五右衛門尉が戦死したので忠節を賞し跡目相続を認めるために、戦場で出したそうです。

~大津城攻めとは~
9月の初旬、京極軍は3千の兵で籠城しました。
それに対して西軍は毛利元康を司令とした総勢1万5千を差し向けました。
この時、宗茂は4千の兵を連れて合流しています。(1300でよいとの伝令があったそうなのですが、4千も連れて行ったということから、宗茂の気合が見て取れるそうです)

大津城攻めは長引かせるわけにはいかない戦いでした。籠城した城を落とすには時間がかかるものなのですが、
宗茂ら柳河藩の活躍はめざましく、時間をかけずに大津城の本丸を残すというところまで追い込みました。
そして、9月14日に高野山の木食応其の仲介で開城することとなり、15日に高次が城を出ました。

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古文書館ST_5

立花宗茂は、大津城を開城した後、関ケ原に向かう途中で、西軍の負けを知り大阪城へ戻ります。
しかし、毛利輝元に籠城戦を進言するも受け入れてもらえなかった為、柳河に帰ることにします。
大阪から船で帰る途中に人質となっていた実母「宋雲院」を奪還し、島津義弘と共に九州へ移動しています。
この時、家康(東軍)との交渉に、丹親次(半左衛門)を上方へ残しました。

船で瀬戸内海を渡り、島津義弘と共に九州へ移動したことは、島津家文書にも記載されてるのですが、
その後の上陸場所、柳河までのルートは史料によって様々な記載があるので、未だわかっていないそうです。

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「東軍大名に対する備え」

~柳河藩の状況がわかる書状です~
柳河には柳川城を本城として5つの支城がありました。
久留米藩や佐賀藩などからの攻撃に対してのまもりの強化が必要な城もあり、どこへ誰をおくり、石や与力はどの位与えるかなどの人員配置の書状や、城料の書状、小野鎮幸に柳河城の改修を命じた関連の書状など。

当時の柳河藩の状況や、宗茂と家臣の繋がり、特に小野鎮幸には絶大の信頼をおいていたことなどが展示された書状の内容からみえてきます。

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宗茂が関ケ原合戦から柳河に帰ってきた後、鍋島直茂(佐賀藩)が攻めてきました。

息子の勝茂が西軍で参加していた鍋島直茂は西軍が負けたと知るやいなやすぐに家康へ謝罪し、立花宗茂を攻撃するということで許してもらう約束をとりつけたので必死に攻めてきます。
それに対し、柳河藩は小野鎮幸を総大将とし、直茂の進撃を阻止するために向かいます。
(宗茂は家康に許してもらう立場&家康からの返事を待つために戦に出られません。柳川城に残ってます)

そして、江上・八院あたりで合戦がはじまります。

「江上八院合戦」
古文書館ST_6

この戦の軍記や、総大将だった小野鎮幸の戦場報告書、そして宗茂が出した感状などです。

古文書館ST_7

小野鎮幸勢の軍功を認定したものは、戦傷者、戦死者の多さから約2mという長さ、
そして、小野鎮幸の戦場報告書の、鎮幸が鉄砲で受けた傷や瀕死のようになりながら撤退した様子など、
他にも感状や報告書に綴られている内容から、この合戦がかなりの激戦だったことを物語っています。

宗茂も家康からの返事がまだ来てない(交渉中だった)ので負けられなかったとのことですよ。

柳河藩の有力武将も数多く戦死してしまいました。
戦後、塚を建て祀った場所や供養塔が今でも残っているそうです。(現在は久留米市内にあります)

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「柳川城開城」

柳河勢は江上・八院合戦の後、柳川城にて籠城の構え。
黒田如水は直茂と合流して久留米城を開城させた後から、水田に陣をはっています。
直茂は江上・八院合戦後、柳川城付近まで攻めてきています。
そして、加藤清正も宇土城を開城させた後に北上し、久末(三橋町)に布陣し、柳川城の開城に向けて攻めてきました。

ジリジリとした状況の中、立花宗茂の心情がちょっとわかる書状があります。必見です(^^)

宗茂が鷹尾城の立花鎮久にあてた書状です。
右と左の筆跡を見比べてみてください。
古文書館ST_8

右は、もう少し持ちこたえてくれ。という励ましと戦の状況などが書いてあります。
かなり筆跡が荒れてて、緊迫している様子ですね。

左は、丹親次が家康からの「見上安堵之御朱印」持って今は水田にいる。明日には到着する。
あなたの命もたすかりますよ。というようなことが書いてあります。
筆跡も落ち着いているような感じになりましたね。

この「見上安堵之御朱印」を受けた事で、加藤清正らの開城勧告を受け入れ、
宗茂は、10月25日に柳川城を開城します。

開城後、宗茂は実母「宋雲院」をまた人質に取られてしまいます。
しかし、上洛費用が無かったため小野鎮幸にお金を借りたそうです。
その時の借用書には国替えくらいで済むだろうという宗茂の心情がかいま見える部分があるそうです。

ですが、立花宗茂は国を没収され加藤清正の元に預けられる事になります。
加藤清正は三つ橋まで迎えに来たそうですよ。

古文書館ST_9
「柳河明証図解」後世に書かれたガイドブックのようなもの。
加藤清正が三つ橋まで迎えに来ている様子が描かれてます。

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関ヶ原といえは岐阜を思い出しがちですが、九州での関ヶ原合戦にも注目してみてください。
そして 立花宗茂といえば、戦国大名の間でも一目おかれていた人物。
古文書から、宗茂の人となりや他の大名との関わりを知ってみたり、この時代の雰囲気を楽しんでみてください
(^^)

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*このBlogでは「立花宗茂」と統一して記載してますが、この時代は「親成」「尚政」と名のっています。
古文書の名前もチェックしてみてくださいね。

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今回の展示に関連した場所も紹介します。柳川で歴史を感じる散策をしてみてはいかがですか(^^)

●柳川城の跡地は一部のみ開放されています。

柳川城址:福岡県柳川市本城町
古文書館ST_11

古文書館ST_12

古文書館に天守閣や城内の模型があります。
古文書館ST_13

●現在の「三つ橋」
古文書館ST_10
柳川市役所・三橋庁舎(福岡県柳川市三橋町正行431)のそば

●三柱神社:福岡県柳川市三橋町高畑
古文書館ST_14
立花宗茂、誾千代、道三、の三神を祀った神社。
欄干の擬宝珠は、柳川城改修の時に移築されたもの、慶長4年の文字があるので見つけてみてください。

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古文書館の今後のスケジュール

9/9~10/12 開館30周年記念・九歴5周年記念特別展「海西にニ巨儒あり」
10/15~12/27 開館30周年記念特別展「世界の中の安藤省菴」

月曜休館
時間:午前9時30分〜午後4時30分(入館は午後4時まで)

柳川古文書館柳川市隅町71番地2

古文書館は今年(2015年)30周年を迎えました。

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古文書館ST_15

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